大判例

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東京高等裁判所 昭和37年(う)1932号 判決

被告人 佐藤久人

〔抄 録〕

所論は、その控訴趣意第三点において、原判決の事実誤認を主張するので、この点について、記録を検討した上、当審における事実取調べの結果を綜合して考察することとする。

本件公訴にかかる業務上失火の訴因および原判決認定の事実を要約すれば、東京都葛飾区本田川端町九四番地所在株式会社ステート写真化学研究所の写真薬品製造工場に設備された、側煙道式重油炉の南側側面部中央寄り附近に亀裂損傷が生じており、昭和三十五年一月二十七日午前九時頃から同日午後七時三十分頃まで、右重油炉を使用した際右亀裂損傷箇所から熱気等が漏れて、炉の上に置いてあつた茣蓙、作業衣等を燻焼炭化させ、翌二十八日午前一時四十分頃、附近の壁板等に燃え移るに至らせ、右工場を含む建物および隣接住家三棟を焼燬した事実と、被告人が右会社代表取締役として、前記重油炉の点検補修を行い、工員らが炉上に前記の如き可燃物を置かないよう指示監督を厳重にして火災の発生を未然に防止すべき義務上の注意義務があるのに、これを怠り、前記火災に至らしめたという事実である。

ところが当裁判所が重ねて事実の取調べをした結果によれば、右重油炉の亀裂箇所から熱気等が漏れて、炉上の茣蓙、作業衣等を燻焼炭化させた結果前記火災を生ぜしめた事実を認めることができないのである。すなわち、鑑定人植田辰洋の鑑定結果によれば、本件重油炉は横形多管式ボイラーで、煙突の作用だけによつてボイラー通風を行う自然通風方式であるため、ボイラーを焚きはじめる時分には、煙突にまだ外気温度の空気が充満しており、ボイラーの通風力が生じないし、極めてそれが微弱であるため、煙道部と外気との圧力差が殆んどないから、煙道部に亀裂が生じている場合、これからガスが漏れるし、また、焚きはじめの頃には、部分的な異常燃焼、急激な燃焼によつて瞬間的な圧力上昇を生じて亀裂箇所等から燃焼ガスを吹き出すことがあるが、炉の燃焼を継続し、煙道内の空気が次第に燃焼ガスに入れ代り、燃焼ガス温度が高まり、通風力が強くなり、煙突入口のガス温度が三五〇度前後となる通常運転状態に入ると、煙突下部においては周囲の外気圧に比して五ないし六mm水柱、煙道部においては四ないし五mm水柱程度の風圧を生ずるため、煙道部亀裂部分からガスその他熱気の漏れることはないことが明らかである。

この点について、原審における鑑定証人大芝賢三の説明によると、本件重油炉の表面に相当大きな亀裂が生じており、それには煤が附着し相当古い亀裂と思われるが、本件火災の原因は、ボイラーの使用中亀裂のところから吹き出す熱風或は煤等によつてその上に置いてあつた可燃物に着火したという風に考えるというのである。本件公訴および原判決の認定は主として右大芝鑑定を基礎としてなされたもののようであり、当審における植村鑑定と正に相反するものであるため、当裁判所においては重ねて右大芝鑑定人のこの点についての釈明を求めたのであるが、その説明によれば、同鑑定人も植村鑑定の理論的数字的な結論には異論はないが、同鑑定人が多年火災原因等について科学的理論的研究を重ねた結果によれば、計算の上では火災の原因にならないような火の子が大火の原因となつている事例もあり、二百度以下で木材に点火する等数多くの火災原因の中には理論上、計数上割り切ることのできない要素が含まれている。重油炉の亀裂から熱気が漏れないという理論が正しくても、仮にその確率が一億分の一でもあれば矢張りそれは火災の原因となり得るというのである。

なるほど、数多くの火災原因を究明するとき科学的理論や計数の上だけで説明のできない複雑な要素が介入する場合のあることは何人も首肯し得るところである。しかしながら、証拠によれば、本件の場合重油炉の火をとめてその使用をやめたのが前記の如く一月二十七日午後七時三十分頃であり、工員岸川彰一が工場の点検を終えて帰宅した午後九時頃にも、右重油炉附近には何らの異状を認めなかつたのである。そして工場に火の手が上つたのが翌二十八日午前一時四十分頃である。大芝鑑定人は重油炉の亀裂から煤、熱気等が漏れてその上においてあつた茣蓙等を過熱して火災になつた疑いがある、というのであるが、右可燃物に点火した時期、あるいは点火の可能になつた時期が、重油炉を使用中の二十七日午後七時三十分までであつたのが、或は火を消して使用をやめた後であるのか、その点の判断もできないというのである。同鑑定人は亀裂から熱気が漏れるという確率が絶無でないという前提に立つてこれを出火の原因と判断しているのであるが、仮にそのような異状な状態が一時的に発生した事実があつたとしても、それが前記火災の原因をなしたものとは認め難い。

本件の場合他に確たる出火の原因を究明し得ないのである。さればといつて、出火の原因たり得るものは被告人の重油炉の火以外にはないと前提して、重油炉の亀裂から熱気の漏れるという確率が一億分の一なりとも存することを否定し得ない限り、それが火災の原因たり得るという大芝鑑定を採用することはできない。右鑑定を基礎として被告人を有罪と認定した原判決は採証を誤り事実誤認の非を犯したもので破棄を免れない。

(兼平 斎藤 関谷)

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